石碑の場所を探して、調査しました。
■石碑の場所の事前調査
小松島市金磯町にあるということで、調査に行く前、どこに行けば目的の石碑があるのかを調べること、
延べ時間にして約半日。
グーグルマップ、グーグルアース、そしてストリートビューを駆使し
(便利な時代になりました)、事前に場所が特定できました。
それ程広くない金磯町。
と言っても、新聞記事(文章と写真)だけを手掛かりに
小さな公園の片隅にある碑を探してまわるのは大変ですから。(^^;
■現地調査
帽巖跡碑場所 徳島県小松島市金磯町(地図)
その昔、源義経が烏帽子(えぼし)を置いた?とされる岩「義経烏帽子岩」が
この地にあったそうです。
1854(安政元)年に発生した安政南海地震により、
烏帽子岩の上部が崩壊したとこの石碑に刻まれています。
残念なことに、
昭和40年頃の土地の整備により、
烏帽子岩は跡形もなくなってしまったそうです。2)
「帽巖跡(ぼうがんあとorぼうげんあと読めばよいのでしょうか?)」
との題字が刻まれたこの石碑。
金磯新田を干拓・開拓した豪農「多田家」の多田勝太郎氏により
明治43年2月に建立された石碑で、舟形地蔵と並んで立っています。
また、しばしばこうした石碑には、
石碑のおもて面だけでなく裏面や側面、また台座といったところに
補足情報が刻まれていたりすることがあります。
残念ながら、この碑にはそうしたものは見当たりませんでした・・・。
※間違っていたらごめんなさい。
安政元年十一月五日寅剋
地震破壊帽岩按阿波志曰
烏帽子岩在金磯高二丈四
尺其頂似帽上周四丈二尺
中痩如削下周十丈八尺也
茲表史蹟以傅後昆
明治四十三年二月
地主多田勝太郎誌
さらに、「小松島市新風土記」を参考に、
解読(解説付)を自己流の解釈込みでしてみました。
以下に示します。
安政元年(西暦1854年)11月5日寅の刻
地震が帽岩を破壊したと考える。
阿波志には こう記されている。
金磯に烏帽子岩あり
その高さ二丈四尺(約7.2m)
その頂が烏帽子に似ている
上方の周りは四丈三尺(約12.7m)
中ほどは痩せているように削れており
下方の周りは十丈八尺(約32.4m)である
ここに史跡に表すことにより
これを後に伝える。
明治43年(西暦1910年)2月
地主 多田勝太郎誌
阿波志:
徳島藩の儒員佐野山陰が藩命によって編集した官撰の地誌
「阿波誌」(文化12年)巻之十勝浦郡、山川の章に烏帽子岩に
ついて記されている。
国立国会図書館デジタルコレクションに収録されており
インターネットを介して閲覧できる
阿波志が刊行された文化12年は、西暦で1815年。
安政南海地震が1854年ですから、その約40年前の記録誌。
この石碑の建立から100年以上が経過し、
その間には、烏帽子岩自体がなくなってしまった。
しかしこの石碑は、今から163年前の1854年安政南海地震の揺れにより
大きな岩が崩壊する被害があった事実を、しっかり後世に伝えてくれています。
この石碑は、小松島でとても激しい揺れに襲われた
とても貴重な石碑です。
この石碑、地震や津波の被害を詳細に記したものではありません。
しかし安政南海地震による小松島市金磯町での揺れが、
大きな岩が崩壊するほど大きな揺れであったことを
後世に伝えてくれています。
■烏帽子岩についての文献調査
この石碑から得られる地震の情報は、発生した日時と烏帽子岩の崩壊についてだけでした。
しかし、この烏帽子岩の崩壊がどのようなものだったのか、
詳しく知ることで見いだせることがあるのではないか!
と考え、小松島市立図書館及び徳島県立図書館を訪ね、
文献調査をしてきました。
「小松島市史(昭和27年10月)」に当時の様子が記されていないか調べてみました。
【引用:小松島市史 昭和27年10月】
少しですが記述がありました3)。
安政元年十一月三日から、同月末迄、
西方の中天にあつて、時々雷の様な音響が聞え、強弱交々震動した。
殊に四日の三時頃から、俄に地震が起り始め、
五日の夕刻は大地震が揺り出ずと同時に、
川口には山の様な津浪が起つた、
人々は何れも各所に避難した。
北町の光善寺西隣りに小川屋という料理屋があつたが、
一番に倒れ火を発し光善寺に燃え移り、
火の粉は浜須賀に飛び新町は東方から焼け、
西町は全体、中町は地蔵寺の隣東側全部、
それに北町は残らず焼けた。
残つた所は神代橋筋と祇園社、正八幡社、地蔵寺だけであつたが、
三日に亘る大火であつた。
津浪は江田の橋迄上荷船を押上げて来た程であつた、
人々を恐々として外に仮小屋を設けて、起臥する有様であつた。
津浪の時に泉の水が急に減水し、潮は落ちて遠くなるという、
この火事の際某家では金銀を、井戸に投げ込んで置いて避難したため
無事であつたという話も伝わつて居る。
【引用:小松島市史 旧小松島町の巻 昭和27年10月】
そこで、次に地形の項目でこの石碑にほど近い「弁天さん」の情報を
当たってみました。
「3、辨天島」
・・・・・(前省略)
又関ぞろに歌われている魚帽子岩は
この附近の畑中につき立つて鳥帽子の形をしていたが
安政年間の地震のためくずれてしまつて
今はそのあとがあるのみである。
【引用:小松島市史 旧小松島町の巻 p.156 昭和27年10月】
弁天島の箇所に烏帽子岩の記述はありましたが、
それは石碑の碑文に勝る程の情報はありませんでした。
文中にある「関(せき)ぞろ」というのも気になって、調べてみました。
「関ぞろ」は「節季候(せきぞろ)」とも書かれ、
江戸時代に小松島の藍商人によって、江戸吉原で囃された歌で、
♪ ずっと昔のまだ昔
九郎判官義経様が
静御前を連れ逃げ
(中略)
烏帽子かけたる烏帽子岩
と歌われていた(いる?)そうです。4)
烏帽子岩の謂れは、
① 義経が烏帽子をかけた岩だからなのか
② 形が烏帽子のようだったからなのか
皆さんはどう思われますか?
個人的には②が先で、①は後付けのように思います。
小松島の様子も描かれていて、烏帽子岩も描き残されています!
以下のリンクから、確認できます。
33ページです。ぜひ探してみてください。
徳島県立図書館 阿波名所図会
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/monjyo/gazou/awameisyozue.html
「ゑぼし岩」と記されていますょ。
【参考文献】
1) 徳島新聞web 2016/12/31 小松島で安政南海地震の碑発見
http://www.topics.or.jp/localNews/news/2016/12/2016_1483158674477.html
2) 阿波・義経街道 其の一:義経リアル・ロード
http://www9.plala.or.jp/romp/awa-yoshitsunekaidoh.htm
3) 小松島市史 旧小松島町の巻 昭和27年10月.
4) 小松島市新風土記 小松島市新風土記編纂委員会 p.330 平成13年4月.
4) 小松島市新風土記 小松島市新風土記編纂委員会 p.330 平成13年4月.
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